「症例から学ぶ婦人科病理学」


京都大学大学院医学研究科・器官外科学(婦人科学産科学)

藤井信吾


 医学部を卒業し、2年間の研修医生活を終えて赴任したところは、一人医長で、毎日外来に100人、1ヶ月の手術25件、年間の分娩は1000例の病院で あった。大変厳しい一人医長生活であったが、生検標本、手術標本が出来上がると顕微鏡をのぞき、自己学習をした。そして1週間に一度であるが病理の先生が 来られるのを待ち受けて色々な質問をした。そして4年間の医長生活の中で10編の症例報告が中心の論文を書いた。その中に2編の英文論文が含まれている。 その一つが、赴任が終わる頃に経験した症例である。妊娠中に腫瘤を触れ卵巣腫瘍との鑑別がつかないために開腹したところ腹腔内の大網や腹膜表面に無数の肉 腫のような腫瘤の播種があった。大網切除してその一部の腫瘤の凍結切片を作ってもらって手術場に顕微鏡を持ってきていただいた。その標本を観察すると核分 裂像はほとんどなく平滑筋腫瘍としておとなしいものに思えた。手のほどこしようのない状態であることから無数の腫瘤を残したままで妊娠の継続を行った。手 術を終えてNovakのGynecologic Pathologyの教科書を開くと、妊娠中の内分泌環境で肉腫のような無数の平滑筋腫瘤が腹膜に発生するが、これは内分泌環境が変わると消失すると書い てあった。leiomyomatosis peritonealis disseminata という病名であった。教科書には今まで6例の報告があると書いてあった。私が経験している症例はこれだと思った。実際この女性は無事満期に経膣分娩した。 分娩のあとこの女性にお腹の中を確認させてもらえないだろうかということを申し出たところ、快諾していただき、産褥1ヶ月で開腹した。お腹の中の無数の腫 瘤は見事に消失していた。これは衝撃的な臨床体験であった。幸い大網は電子顕微鏡標本そして血中ステロイドホルモン濃度も測定するように検体を大学に送っ ていたのと、その頃は大学に帰っていたので、この結果のもとで英文の症例報告をした。世界で9例目であった。

 この論文の結論は腹膜の下の未分化な間葉細胞(ミュラー管と同じ発生起源を有する)が妊娠中の性ステロイドホルモンの影響下で脱落膜様細胞、線維芽細 胞、平滑筋に分化して無数の腫瘤を作り、妊娠の終了でこれらが消失していくということであった。しかし、その時気になって仕方がなかったことが妊娠中であ りエストロゲンとともにプロゲステロンの濃度が高い状態での腫瘤形成である。このホルモン環境で脱落膜様細胞の誘導は簡単に理解できたが、なにゆえに平滑 筋が腹膜の下に現れるのか、それもプロゲステロンの血中濃度が高い時に、なぜ平滑筋が腹膜の下に分化してくるのか大変不思議であった。文献を調べると、モ ルモットにエストロゲン剤を使って子宮筋腫を作製する試みの論文が1941年に発表されており、エストロゲンで腹腔内に多発性の腫瘤が出来、 leiomyomatosis peritonealis disseminataに類似の病態が起きていることを知った。組織学的には線維が細胞で構成されており、大量のプロゲステロンで腫瘤が消失すると書いて あった。

 どうしてもモルモットで追試して、プロゲステロンと平滑筋の分化の関係を見たいと思った。教授からは癌の免疫の研究をするようにと言われたが、隠れてモ ルモットに注射をして腫瘤が出来るかどうかを取り敢えず検討した。すると、それらしい腫瘤が出来るということで、苦労してエストロゲンにプロゲステロンの 濃度を調節して、平滑筋が分化した腫瘤ができることを確認した。

 その後、ミュラー管の中の平滑筋の発生に興味を持ち胎児標本でどのように平滑筋が発生して行くのかという研究を行い、これは同時にミュラー管上皮と間質 細胞の分化にも興味を抱かせ、段々と病理学の方向に歩みを進めた。腹膜は第二のミュラー管であるということから子宮内膜症の発生にも興味をいだき、一方当 然のこととして子宮筋腫の発生に興味を覚えて、様々なアプローチをした。そして病理学から良性・悪性婦人科腫瘍の研究に進み、今は癌の免疫に力を注いでい る。

 婦人科病理は、Johns HopkinsのJ. Donald Woodruffのもとでその眼を確かめ、その後は毎年のようにAnnual Review Course on Gynecologic Oncology and Pathologyを開催して(すでに15回を迎えた)、婦人科病理のRobert E. Scully などの世界の大家達の多くの講演の中から最新の情報を学んできた。

 臨床をしながら自分の施設の病理標本の全てに眼を通すようになってもう20年以上になる。婦人科病理は難しいが、診断は面白い。外科系の医師は病理学的 に正しい診断のもとで外科的手段を行使したいものである。病理診断の大切さをずっと訴えてきたつもりであり、またそのための教育の場を提供してきたつもり である。