動的・広域医学としての病理学をめざして


財団法人 ルイ・パストウール医学研究センター所長 
藤田晢也


 このごろ、医学はますます細分化、専門化の傾向を強めている。ある面からすれば、これは止むをえない文明の潮流の成り行きである。 しかし、別の、長期的見方からすれば、医学の本質を見失う方向へ進んでいき、一心不乱にこの道を追及すればするほど、その努力が、人間の本当の幸福をめざ すはずにもかかわらず、思わぬカタストロフィへと導いていく危険性を孕んでいる。

 ギリシャ時代にヒポクラテスと同時代人だった歴史家ヘロドトスがエジプトを訪れたとき、眼科医、耳医、鼻医、四肢の外科医、などに分かれて高度に専門化 した医学に驚いたことを記録している。世界に覇を唱えていたペルシャの王の侍医はエジプト人だった。これに反して、ヘロドトスは、自らの生まれ育った地に 近いコス島で一家をなしていたはずのヒポクラテスを軽くみたらしい、全くの無視をきめこんでいる。ヒポクラテスは臓器別細分化の医学を避け、臓器の病気を 見るのではなく人間を診る全人的医療を標榜していた。レトロスペクテイブにみて、この勝敗は明らかだ。考えてみると、現代の医学で、全科にわたる疾患を対 象にし、全身の解剖によって疾患の成り立ちを診る全人医学は病理学をおいて他にはない。臨床病理の診断も、このような全人的病的現象を代表的臓器の組織学 的診断の基盤の上に判断するところから成り立っているのだ。じつは、異なった臓器の間の病変に共通性を認め、その相関性を意識して研究することが私の半世 紀におよぶ病理学生活の中で、最も重要な指針であった。

 私が病理学教室の助手としてひとり立ちの解剖をさせてもらってから何例もたたない時、2歳の子供の巨大脳腫瘍に遭遇した。これは悪性でありながら細胞分 化の特徴が明らかな症例であった。この腫瘍を研究している間に、中枢神経系の細胞発生が分からなければ、この腫瘍の本態や正しい診断は分からないというこ とを痛感した。そして、脳腫瘍分類の基礎となる神経系の細胞発生学の研究へと深く関わることになったのである。ここから生まれたマトリックス細胞説は私の ライフワークとなり、現在もその研究を楽しんでいる息の長い研究に成長した。一方、(悪性)腫瘍は細胞の増殖と分化の異常によるものであるので、この分析 的研究が必要となった。この手段を模索しているうち、日本で最初にトリチウムチミジンのオートラジオグラフィを使うことができるようになり、これによって 細胞の増殖と分化をin vivo と in vitroで分析する方法の開発と応用にのめりこんだ。当時は、この方法をヒトのin vivo にも応用できる時代であったので、これが、脳腫瘍だけでなく、(宿題報告のテーマとなった)胃がんの発生や人癌一般の自然史研究へと発展した。臓器別の専 門化を超えて研究できる病理学だったからこそ出来た研究であったと今になって感謝している。